「ショスタコービッチ 引き裂かれた栄光」を読んで
「ショスタコービッチ 引き裂かれた栄光」(岩波現代文庫)を読みました。
若いころ人から「交響曲第5番の行進風の部分は、最初は革命の勝利を祝う意味とされていたが、ショスタコービッチは後にこれは狂った行進だと言うようになった」と聞いたことがあります。その時は、なんていいかげんな奴だと思いました。その後、別な交響曲ですが何度かコンサートで聞く機会があり、CDも買うようになり、人を食ったような面白さがあると感じていました。たぶん交響曲は全曲、あの「ムチェンスク郡のマクベス夫人」などもCDを持っており、聴いてきました。
さらに、スターリンの残虐な非道や、ブレジネフ時代のソルジェニーツィンなどを学ぶにつれ、ショスタコービッチにも関心を深めてまいりました。
さまざまな評伝や解説書がありますが、その類いのものを読んだのはこれが初めてです(それで感想を投稿する大胆をお許しください)。
この本は、ショスタコービッチが度重なる政権からの批判、それは命に関わるようなものだったのですが、それをかわしつつ自分を失うまいと反逆をくわだてる様子を描いています。それも外的な行動、言動でもですが、より中心的には音楽を内在的に分析してのことです。
大雑把に言えば、ショスタコービッチは、スターリン時代にたいへんな批判を受けました。それを交響曲第5番の世界的な成功などでかいくぐります。フルシチョフの雪解け時代は、体制に取り込まれまいと苦労します。ブレジネフにも批判を受けますが、すでに確立した名声による安全との兼ね合いのもとで自分を出そうとします。
政権が芸術にまで口を出そう、文学、音楽など芸術分野も思うような社会建設に従わせようという時代のおかしさ、恐ろしさは言うまでもありません。それをいわゆる標題音楽や歌詞付の音楽ではなく、絶対音楽っぽいものを中心に対抗する様子に感動しました。他の楽曲からの引用に意味を持たせたり、曲の調子や、旋律やテンポのなどの作り方に意味を込めたりするのです。また、「悪いのは取り巻きであり、スターリンではない」という民衆に広がっていた考え方に従うところもあったのではないかとか、命を顧みず正面から反旗を翻えさなかったことに忸怩たる思いもあったのではないかなどと推測したりもしています。また、人のイニシャル(例えば自分のものであるDSCHや、スターリンのそれなど)を音型に取入れたりしたとも推測されています(「それを変形してこういう意味に用いた」などとまでくると、「本当かいな」と思ってしまったのですが)。
目立った弾圧がなくても、社会の圧力はどの時代にもあります。その中でいかに自分を維持するか、私は芸術はちんぷんかんぷんなところがあるのですが、それでも大いに考えさせられました。
