はじめに
憲法82条1項は、「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。」と規定して裁判の公開原則を明記しています。最高裁は、法廷で傍聴人がメモをとることが認められるか否かが争われた事件において「裁判の対審及び判決が公開で行われるべきことを定める憲法82条1項の規定」の趣旨は「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとするところにある」旨の判断を示しています(最高裁大法廷1989年3月8 日判決)。憲法学説の通説的見解においても、憲法82条の定める裁判の公開原則は、裁判の公正さと裁判への国民の信頼を確保するため、民事刑事を問わず、裁判手続の核心的部分の公開を要求する原則だと考えられています。すなわち、判例も学説も、①裁判の公正さの保障と、②裁判に対する国民の信頼の確保が裁判の公開原則の趣旨であると考えているといえます。
以下においては、この裁判の公開原則との関係で、法廷傍聴にはどのような意義があるのかということについて、解雇事件で労働組合が、あるいは被解雇者を支援する人々が法廷傍聴をする場合という具体的ケースを題材として検討してみたいと思います。
前提として、裁判官の法解釈について
いわゆる「解雇権濫用法理」を明文化した労働契約法16条は、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」と規定しています。私たちがある解雇の無効を訴えて裁判を起こしたとき、裁判官はこの労働契約法16条を解釈・適用して、その解雇の有効・無効を判決で示します。
では、いかなる解雇が「合理的な理由を欠き」、「社会通念上相当ではない」のか。条文自体は極めて抽象的な規定、つまり「合理性」あるいは「社会的相当性」という「概念」しか規定していないので、その事件を担当する裁判官が、何が合理的で何が社会的に相当なのかを判断する責任を負います。そして、憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と裁判官の独立を保障していますから、裁判官は労働契約法16条を解釈適用する上では、自己の「良心に従って」何が「合理性」で何が「社会的相当性」であるかを判断して、その事件について判決を書くことになります。
裁判官は「真空地帯」で法解釈を行うことはできない
では、裁判官は、自分の思うままに「合理性」あるいは「社会的相当性」を判断できるのか。比ゆ的に言えば、裁判官は「真空地帯」で法解釈を行うことができるのか。ここで思考実験として、「自分は、変な世論に影響されて偏った判断などしない。自分は、全てのものから独立して正しい判断を行う優れた能力がある。」と思っている裁判官がいたと仮定しましょう。その裁判官は、本当に一切のものから「独立した判断」が行えるのか?
哲学的に考えると、そのような、一切のものから「独立した判断」、「真空地帯での判断」というものは原理的にありえないといえます。そもそも一般に、判断の根拠となる「概念」は、その判断に先立って自体的に存在しているのではありません。すなわち、法的な概念を含めて、「概念」は、歴史的かつ社会的に規定された私たちの社会=実践的共同体から切り離されたところにそれ自体で存在するものではなく、むしろ社会=実践的共同体の中で判断が積み重ねられてくる中で形成されてくるものです。また、いかなる判断が適切であるかについての普遍的な基準が、プラトンのイデアのごとく予め私たちに与えられているなどということはありません。個々の判断が適切かどうかは、次の2つの条件に依存します。①ある判断が真とみなされること=社会において承認されること、②その判断が他の諸判断と整合的であること、の2つです。この整合性を構成するのは、諸判断の論理的に整合的なネットワークとしての推論であり、ヘーゲルによれば、いかなる判断もこの推論的全体のうちに位置づけられるとされます。
そして、これらの概念形成及び判断作業は、全て言語を通じて行われるものであり、私たちの言語的実践に依存しています。言語とは単に世界を記述するためのものではなく、私たちは常に言語を用いて何事かを行っている。そしてヴィトゲンシュタインによれば、言語を用いた私たちの実践は、歴史的かつ社会的に規定されており、言語を形作るのは歴史的・社会的実践であるとされます。
例文として、「独身者は未婚の男性である。」という文についてみると、この文は単に客観的な事実を述べる「経験的命題」ではなく、「独身者」という「語の使い方に関する規則」を述べる命題であり、ヴィトゲンシュタインのいう「文法的命題」です。文法的命題は、「事実」が自体的にあってこれを単に記述しているものではなく、私たちが言語的なプラクティスの歴史を通じて規則として構成したものです。規則に従うことが社会的な事柄である以上、意味を規定する規則としての文法もまた社会的に共有されなければならず、文法もある程度は自律的であるとはいえ、社会的かつ歴史的コンテクストによって制約されているものです。
裁判官も正に「言語」を通じて判決を書く以上、これらの原理から逃れることは絶対にできないのであって、歴史的かつ社会的に規定された私たちの社会=実践的共同体から切り離された「概念」を独自に作ることは原理的にできないことです。いま議論している例でいえば、解雇の「合理性」あるいは「社会的相当性」という概念について、裁判官はその概念の意味を社会的かつ歴史的コンテクストを踏まえて解釈しなければならず、これを一切無視して真空地帯で「独立した判断」を行うことはできません。ある事柄を理解しているということは、それについての適切な、すなわち社会共同体において受容可能な「命題」あるいは「文」を形成することができる能力を有しているということですから、ある法概念について社会的かつ歴史的コンテクストを踏まえた解釈ができない裁判官は、そもそも裁判官としての能力を有していないということになります。
解雇無効を争う事件で労働組合や支援者が「法廷傍聴」をする意義
以上の検討を踏まえて、解雇事件における法廷傍聴活動が有する積極的な意義について考えてみます。結論からいうと、解雇事件における法廷傍聴活動は、憲法82条に規定された裁判の公開原則について最高裁や学説がいう①裁判の公正さの保障と、②裁判に対する国民の信頼の確保という機能以上の、より積極的な意義を有しているということができると私は考えます。
すなわち、真剣なまなざしで審理を傍聴するという法廷傍聴活動を通じて、その解雇には「合理性も社会的相当性も存しない」と考える多くの人々が存在していることを示すことにより、裁判官に当該事件がこの社会=実践的共同体の中でどのような文脈に位置づけられる事件であるのかを伝え、裁判官がその事件について判断=判決を書く上において、①社会において承認しうる、②他の諸判断と整合的な判断を行うことに資する、という積極的な意義を有しているということができるのではないかと思う次第です。そして、日本の法曹養成システムにおいて、裁判官はエリート養成課程を通じて供給される中で、概して社会的経験が乏しいという実情にあることから、法廷傍聴活動を通じてその事件の社会的文脈における位置づけを伝えることは一層重要なことであると思われるのです。