インクルーシブ教育を学びました
2025年12月11日に長崎において開催された日弁連の人権大会のシンポジウム第1分科会「分ける社会を問う!地域でともに学び・育つインクルーシブ教育、ともに生きる社会へ~今、障害者権利条約が日本に求めるもの~に参加してきました。
※このシンポジウムについては、後日(けっこう後になると思います)、アーカイブ配信されます。
私は、2025年6月に育休から復帰するまで2年間お休みしていましたので、このシンポにはほぼ関われませんでしたが、シンポジウムを通して多くの事を学びましたので、少しでも共有することができればと思い、レポートします。
シンポジウムに参加するにあたって、私は『分離はやっぱり差別だよ』(大谷恭子、現代書館)と、『一緒がいいならなぜ分けた』(北村小夜、現代書館)を読んでのぞみました。とてもいい本で、現地では『分離はやっぱり差別だよ』を売っていたのですが、本シンポジウムの基本書的な本ということもあり、たくさん売れていました。
皆さんは、学生時代、障害のある友達がいましたか?
私の記憶では、小学校の下の学年に、同じ地域と、隣の地域に知的障害のある子がいましたが(田舎なので、一つの小学校の学区がとても広いです)、その子たちは、「ひまわり学級」みたいな名前の学級にいました。クラスには、今思えば緘黙の子がいましたが、わかりやすい知的障害のある子だとか、身体障害のある子はいませんでした。養護学校との交流は一度くらいだけした記憶があります。
私たちのほとんどは、私と同じように、障害の有無で分けられて学校生活を送ってきておられる方がほとんどではないでしょうか。私たちは、小さいころから、障害のある人から分けられた、均質的な社会で生活するのに慣れてしまっていて、障害のある人を一種、別の世界の人と感じてしまっていませんか。
私の小学校でもそうでしたが、「ひまわり学級」みたいな名前の特別支援学級が設けられることにより、その学級にいる子は、私たちとは違う子なんだという意識がありましたし、分けられた当人たちにとっても、劣等感を植え付ける原因になっていたのかと思うと、無意識に差別をする側になっていたことに苦しい思いがあります。
現在の日本では、特別支援学校、特別支援学級に在籍する生徒の数は増加しており、また、精神科病院への強制入院で隔離され、精神病院の中で一生を終える人も多くおられます。では、このような分離・隔離は、障害のある人だけの被害なのでしょうか。シンポジウムはこの点を問うものだったと感じました。
<第一部>
オープニングは、全盲の弁護士大胡田誠さんのパートナーで全盲のシンガーソングライターの大石亜矢子さんによる歌です。会場が手拍子と歌で一気に一体感が出ました。
基調講演の1人目は、国連障害者権利委員会の元委員(副委員長)である石川准さんです。石川さんからは、医療の分野では精神障碍者が社会秩序を維持するために隔離されていること、教育分野では、「同一年齢・同一内容・一斉授業」により規律ある社会を再生産するために、特別支援教育の名のもとに、障害のある子や、授業になじまない子を分離、排除し、「正常性」を維持していること等の現状、人権尊重のためには日本 社会の根強い価値観である「秩序・効率・同質性」を「尊厳・自立・選択・多様性」 へ転換することが課題であることが強調されました。
基調報告の2人目は、国連子どもの権利委員会の元委員(委員長)である大谷美紀子さんです。大谷さんからは、子どもの権利委員会からも、子どもがインクルーシブ教育についての権利を有しているという方向から日本が勧告を受けてきたこと、「子どもの最善の利益原則」は、子どもの意見を聞くことを必須とする、子どもが学ぶことを中心において、学ぶために教師はどう手だてするかという観点からとらえられるべきこと、インクルーシブ教育という時、移民の子どもなど、教育からはじかれがちな子供も対象とするものととらえられるようになっていること等が報告されました。インクルーシブ教育とは、すべての生徒の多様な学習条件および要求に正当に対応しようというものであり、これを「当たり前の人権」として 具体的にどう達成するのか、あるいはそのための道筋をどうしていくかというビジョンであるとのお話があり、障害のある人のことばっかりを考えている私にとっては、狭いことを考えていたなぁと反省しました。
次に、シンポジウム開催にあたり、日弁連が行ったアンケート調査とその結果の分析が発表されました。こどもの数が減少している中にあって、特別支援学校や特別支援学級に在籍する児童生徒数は、過去13年で2.5倍に膨れ上がっています。アンケートの結果からは、就学選択時に不適切な対応(例:特別支援学校の方がその子のためと言われた、普通級を希望しても、普通学級では支援員はつかないと言われたなど)を受けたことや、合理的配慮の欠如が多くみられました。通常学級・学校では合理的配慮や支援を受けられないまま、ポーンと放り込まれる「統合」が行われ、それによってつらい思いをする子が出て、通常学校・学級ではなく特別支援学校・学級の希望が増えるという悪循環が生じているという推論をたてています。
<第二部>
・脳性麻痺のある岡本湖心(こころ)さん、脳性麻痺のある子どもの母親の橋村りかさん、教師の山下晴美さん、24時間公的介護を受けて生活する山口和俊さんから、地域の学校で学んだことの経験や、現在の制度下での教育の実践について話がありました。いろんな話があったのですが、いくつかメモしていることを共有しますと、母親の立場から、入学当初は「ごめんなさい」と、子どもが迷惑な存在であるという前提で話をしていて、我が子に対する最初の壁、差別をしていたのは自分だったと感じたという率直な思い、分離の制度が存在すること自体が分けられる存在を迷惑な存在であるとの強烈なメッセージになるということ、自分(子ども)に対する信頼があれば大丈夫、ぶつかりあいもある、いいことばかりじゃないけど、その摩擦の中から子どもは学んでいく、(障害のある子は同じ教室で勉強しても点数を取れるようにはならないのでは?という疑問に対して)学ぶ(知る・体験する)と分かるということは違っていい、自分が社会の一員と言う感覚があることは、助けてと言える、自分の意見を言う、選択する力につながるなどなど・・・
山口和俊さんは、長崎で自立生活センターこころの代表をされて、地域生活をしておられます。私は介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットの会の事務局をしており、24時間公的介護を保障するための行政交渉などを行うこともあり、山口さんのことは何でか忘れたのですが、存じあげていたのです。名刺入れを事務所の机の上に忘れてしまって、一方的に名刺をいただいただけになりましたが、同じ九州の地でがんばっておられるCILの方とつながることができて、とてもうれしかったです。山口さんはCILこころのFacebookでも感想を述べてくださっています。
・障害のある子どもの親である奥山佳恵さん、フリーアナウンサーの長谷部真奈見さんからも、ご自身の経験をビデオメッセージで寄せていただいていました。
・オリジナル映画「隣の席がなくなる日」の上映。この映画では、現在の日本とは真逆に、インクルーシブ教育が行われている日本を舞台に、分離教育法案が国会に提出されることになったとある学校の生徒たちのやりとりが描かれています。
主人公・視覚障害のあるまどかの「できないやつができるやつに混ざっても迷惑なだけでしょ」青木先生の「人間は人間から学ぶんですから、ともにしか、学べないと思ってますよ。だいたいね、目が見える、見えない、早く走れる、走れない、金持ちだ、貧乏だ・・・。そんなことで持ち場を分けていったら、いずれ全員一人ぼっちになっちゃいますよ」など、ずきんと考えさせられるセリフがたくさんでした。会場では泣いている人がたくさんいました。
<第3部>
・鴨川智江美さんより、精神障害のある人の地域生活を支えるACT(アクト)の活動報告をいただくとともに、精神障害のある当事者・石川智香子さんから、地域生活に至る経過や現在の暮らしをお話しいただきました。
鴨川さんは、看護師で、石川さんの自宅を訪問されますが、薬を飲んでいるかの確認はあまりされないそうで、むしろ、最近どう?と、目の前にいる石川さんそのままのお話を聞かれるそうです。そこに、病気を患っている石川さんを治療するのではなく、そのままの石川さんを支援するという姿勢があらわれていて、いいなぁと思いました。
・提言として、現在国連の障害者権利委員会の委員を務めておられる田門浩弁護士、基調講演の石川さん、大谷さんを交え、インクルーシブな社会に向けて話をしていただきました。富士山に例えたロードマップを共有し、登らずに、実現できる・できないという議論にとどまるのではなく、どこまで一緒に進めるかを考えていくことが重要であることを確認しました。
<参加してみての感想>
シンポジウムに参加して、分離をすることは、障害のある子にとってはもちろん、障害がないとして通常学級にいる子にとっても学ぶ権利を侵害されているのだと思いました。
子どもをもつ親となってみて(5歳、2歳、1歳の子がいます)、子どもにはいろいろな体験をして、いろんなことを感じてほしいと思うことがたくさんあります。もちろん、差別をするような人間にはなってほしくない。多くの親はそのように思っていませんか??
今の子ども達は、就学前に検診を受ける中で、いろんな障害があることを知り、就学前相談で特別支援学級・学校を勧められ、分けられるベルトコンベアーに乗せられます。そして、普通学級に進学した子は、障害のある子と触れ合わず、均質な教室という箱の中で、一斉教育についてこれる子だけを対象とした教育を受け、学力テストで能力に遅れが見つかれば、途中で特別支援学級を勧められ、普通学級からはじかれます。そしてこれらの均質化の過程は「こどものため」というパターナリズムに支配されています。均質な教室の中で学ぶことは、その中にいる子どもたちは望んだことではありません。こどもたちは、いろんな子のいる環境でぶつかりながらもいろんな人間がいるということを学ぶ機会を失っているのです。そして、障害のある子を差別するという目を持たされていきます。これは、普通学級にいる子にとっても人権侵害です。
普通学級にいる子は、一人ひとり違ってもいい、というメッセージを受け取っていませんから、個性のある子を排除しようとしてしまいませんか?自分の個性を出してしまわないように、息をひそめていませんか?
今の日本の制度では、障害のある子が普通学級で学ぶことは、学校ごとの先生の努力によるしかありません。ただ、現在の制度でも、障害のある子の学びを支える実践をしておられる先生もいるという報告もありました。
すぐに制度、意識は変わらないかもしれませんが、まずはできることをやってみよう、そう勇気づけられるシンポジウムでした。
シンポジウムの翌日には、「ともに学び・育つインクルーシブ教育及びともに生きるインクルーシブ社会の実現を求める決議」が採択されました。ご興味がありましたらこちらもお読みください。
https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/2025/2025_1.html
