「すべてを書く。つねに書き続ける。書かれていないということは存在しないことと同じだ。書かれていないことは現実ではない。」
これは、『カテリーナの微笑―レオナルド・ダ・ヴィンチの母』(カルロ・ヴェッチェ著・日高健一郎訳・みすず書房)という歴史小説の登場人物の一人であるヤコモの回想の一節です。同書の訳注によると、この人は9世紀初めに遡るヴェネツィア貴族の家系の実在の人物で、この人が1436年9月2日から1440年2月26日までコンスタンティノポリスに滞在してそこでの収支会計を複式簿記で記録した『勘定の書』が現在ヴェネツィア国立文書館に保管されているそうです。上記の小説の第4章は、この史料をもとに著されています。そして、この小説自体、歴史家である著者がフィレンツェ国立古文書館でカテリーナという名前のカフカス出身の奴隷の解放証書を発見し、これを元に壮大な歴史小説として描き出したものです。ちなみにこの解放証書の起草者はピエロという公証人でレオナルド・ダ・ヴィンチの父です。(この当時の奴隷制度については、また別の機会に書いてみたいと思っています。)
わたしたち法律家が携わる法律実務、とりわけ裁判においても「記録」は、欠かすことのできないものです。その最たるものが、民事訴訟法上、「書証」(219条)と呼ばれるいわゆる証拠書類です。民事裁判においては、ある法律効果を主張する側がその法律要件が存在することを証拠に基づいて立証する必要があります(立証責任)。立証の手段としては、大きくいって人証と書証、つまり証人尋問と証拠書類の取調べの2つがあり、このうち書証=証拠書類は、極めて強力な立証手段となります。いちばん分かりやすい例は、借用書でしょうか。人にお金を貸したのに約束の期限に返してもらえず裁判を起こしたとします。その際、借用書が作られていなかったら、お金を貸したという事実を知っている証人を探し出して法廷で証言してもらう、などの面倒な立証が必要となりますが、借用書が作られていれば、実際にお金の貸し借りがあったことを容易に証明できる、という具合です。ちなみに、民事訴訟法228条4項は、本人の署名または押印がある私文書は「真正に成立した」つまりその文書は作成名義人となっている人物が自分で作った(=偽造ではない)と推定すると定めます(二段の推定)。このような次第で、わたしたち法律家は、「記録にとどめる」ということの重要性を日頃から嫌というほど実感しています。パワーハラスメン被害の相談を受けることも多いのですが、証拠がないことで心底悔しい思いをする例がたくさんあります。せめて、被害を受けた直後に自分でその事実を言語化して「記録にとどめる」ことをしていれば、被害事実の立証の突破口となったのに、と感じることも多々経験します。
記録といえば、当然記録媒体が重要となりますが、この点で考えさせられる次のような文章に出会いました。「まずはカセットテープに収められた歌、そしてVHSテープに録られた映画。私たちはいつも、科学技術が流行遅れしつつあるものを拾い集めるというフラストレーションが溜まる努力をしている。DVDができたとき、私たちは、やっとのことで記録保管の問題が未来永劫解決されたと言い合ったが、もっと小さなサイズのディスクに魅了されて同じことを言い合い、無駄に新しい装置を買いたがった。そしておかしなことに10世紀も前に忍耐強く書き写された手稿書はいまでも読めるのに、使用期限切れの博物館のごとき家の物置に保管されている数年前のビデオテープやフロッピーディスクは、いままでのコンピューターや再生装置をすべて保管していなかったならば、すでに読み込めなくなっている。」(『パピルスのなかの永遠―書物の歴史の物語』(イレネ・パジェホ著・見田悠子訳・作品社)。
私は、やはり紙のノートに万年筆で自分なりの記録を残していく作業がしっくりくると感じています。