最近、T.M.Revolutionの「HOT LIMIT」が再び話題になっているようです。
1998年の曲なので、私にとっては「昔の曲」なのですが、あの独特の衣装も含めて、今の若い世代にも新鮮に映っているのだそうです。
個人的には、「HOT LIMIT」といえば、ロマサガ学会の配信者おやつさんの動画(ロマサガ3のようせい)でしょうか。(゚∀゚)o彡゜ようせい!ようせい!
ゲームといえば先週のニンテンドーダイレクトでスイッチ2版のゼルダの時オカが11月5日に発売されると発表されましたね。高画質オープンワールド!これはやりたい・・・産休育休している間にブレワイとティアキンはやりましたが、復帰した今となってはそんな時間がないから買うだけ買ってやれる時が来るのを待つしかありません。トルネコの大冒険もリマスター版が発売されましたが、これまた積んでおくしかありませんね。
……という話とは全く関係ないのですが。
すこし前に、福岡大学で学生の皆さんに向けて講義を行いました。
テーマは、
「優生保護法は終わったのか―優生思想と障害者差別の現在」
です。
今回は、優生保護法による強制不妊手術という歴史だけではなく、
なぜ、そのような法律が作られたのか。
なぜ、長い間、社会の中で受け入れられてきたのか。
そして、優生保護法を支えていた「人の価値を選別する」という考え方は、本当に過去のものになったのか。
ということを、学生の皆さんと一緒に考えました。
「合理的な選択」は、本当に合理的なのか
講義は、学生の皆さんへの一つの質問から始めました。
出生前検査で、胎児に重い障害があることが分かったとします。
家族の負担が大きい。
子ども本人も苦労するかもしれない。
社会保障費も増える。
だから、出産を控えるという選択は合理的である。
この考え方を、どう思うでしょうか。
少し考えてもらった後で、私は伝えました。
「今、合理的だと感じたその考え方は、実は優生思想ととても近いところにあります」
優生保護法は1948年に制定され、「不良な子孫の出生防止」を目的の一つとして掲げていました。
障害のある人などに対し、不妊手術が行われ、本人の意思に反する手術も制度として認められていました。
対象とされたのは、知的障害や精神障害、遺伝性疾患とされた人、ハンセン病患者などでした。
つまり、社会が「望ましくない」と考えた人たちです。
「悪い法律」があっただけではない
優生保護法の問題を考えるとき、単に「昔は悪い法律があった」という話で終わらせてはいけないと思っています。
法律を支えていたのは、法律だけではなかったからです。
その背景には、
「役に立つ人間」と「役に立たない人間」を分ける考え方
がありました。
障害のある人を社会の負担と見る意識。
「健全な市民」を増やすことが国家の発展につながるという考え方。
社会にとって役に立つかどうかによって、人の価値を測る発想。
そうした社会全体の空気が、優生保護法を支えていました。
法律は、必ず正しいのか
優生保護法は、国会で制定された法律でした。
行政によって運用され、多くの医療関係者や福祉関係者も、その制度の中で役割を果たしました。
ケアをする立場にあった専門職が、結果として国家による人の選別政策を実行する側になっていたという歴史があります。
法律や制度に従っていれば、それで人権侵害は起こらないのでしょうか。
2024年、最高裁判所は、旧優生保護法による強制不妊手術が憲法に違反すると判断しました。
しかし、被害を受けた人たちが声を上げ、司法が違憲と判断するまでには、何十年もの時間がかかりました。
だからこそ、法律を扱う者には、
「この制度によって、誰が守られているのか」
そして、
「この制度によって、誰の声が届かなくなっているのか」
を考え続けることが求められるのだと思います。
「自助・共助・公助」と言われる社会で
現在、社会保障や福祉をめぐっては、限られた財源をどう使うのかという議論が続いています。
「自助・共助・公助」という言葉もよく聞かれます。
もちろん、社会保障制度を持続可能なものにすることは重要です。
しかし、その議論が、
「どれだけコストがかかるのか」
「どれだけ生産性があるのか」
という方向に傾いていくとき、私たちは注意する必要があります。
社会を効率やコストだけで考えるとき、支援を必要とする人は、真っ先に「削減の対象」になりやすい。
だからこそ、福祉予算や社会保障について議論するときにも、
その制度によって、誰が生活を維持できるのか。
誰が社会から排除されることになるのか。
という視点を持ち続ける必要があると思います。
優生思想は、本当に過去のものなのか
講義では、2022年に北海道のグループホームで明らかになった問題も取り上げました。
知的障害のあるカップルが結婚や同居を希望する際、不妊処置を条件とされていた問題です。
子どもを持つことを望む障害のある人に対し、「子どもに障害があったら誰が責任を取るのか」という考え方が示されていました。
優生保護法はなくなりました。
しかし、
障害のある人は子どもを持つべきではないのではないか。
一人で暮らすことは難しいのではないか。
恋愛や結婚は本人のためにならないのではないか。
社会で生活するより、施設で暮らす方が本人のためではないか。
このように、本人の意思よりも周囲が「その人のため」を決めてしまう場面は、現在でもあります。
「わたしたち抜きに、わたしたちのことを決めないで」
優生保護法のもとでも、障害者への手術を実際に勧めたのは、国家や専門職だけではありませんでした。
親や教師など、本人の身近にいる人たちが「あなたのため」と考えて勧めた場合もありました。
しかし、「あなたのため」という言葉が、本人の人生を決めてよい理由になるわけではありません。
どれほど善意であっても、当事者の声を聞かずに、その人の人生を決めることはできません。
施設で暮らすのか。
地域で暮らすのか。
誰と恋愛するのか。
結婚するのか。
子どもを持つのか。
どのような支援を受けるのか。
まず問われるべきなのは、
「本人はどうしたいのか」
です。
優生保護法はなくなりました。
しかし、優生思想は終わったのでしょうか。
社会を「生産性」「効率」「コスト」だけで考えたとき、私たちはどのような社会を作ろうとしているのか。
今回の福岡大学での講義では、その問いを学生の皆さんと共有しました。
そして、弁護士として障害のある人の権利に関わる仕事を続ける中でも、これから問い続けていきたいと思っています。